中学生になり私は不登校になった
今では珍しくもないと思うが自分たちの時代ではあまりいなかったと思う。
SNSもなければコミュニケーションは電話か実際に会うしかない時代だ。
きっと無理をしている人は多かったような気もする。
毎日届く手紙
親は黙っていたが、毎日のように「死ね!消えろ!」などがたくさん書かれた手紙が届いていたという。きっと同級の人たちであろう。友達をいう友達もいない、なぜなら名前も顔も覚えていない。
彼らはきっとニヤニヤしながら、手紙を書いていたに違いない。
今の時代なら裏掲示板や鍵かけたアカウントSNSで笑っているのだろう。
中学1年生の私の思考は「もう消えてしまおう」と毎日思っていた。
それが世の中が期待していることだ。
消えてしまおうと思った日
もうどうでもいい
もう何も感情はない、どうなっても何をされても何を言われても、どうでもいい。
感情というものは、なかなか治らないもので、今現在も「どうでもいい」という感覚がある。
幼少期時代のトラウマや中学1年生の時の出来事などで人というものを信頼信用するということができなくなった。しかし、優しくしてくれた方たちには感謝を忘れていない。
そのような感情が常に頭にあるある日、もう消えてしまおうと強く思った日があった。
どうやって消えよう、誰にも迷惑かけない方法はないものか、なんなら地球ものとも消えてくれないだろうか。テレビを見ながらずっと考えていた。
ドラゴンボールに救われる
実行しようと思った日、ドラゴンボールを見ていた。
「これを見終わったら消えよう」
どんな顔しながらみていたのだろう。
涙も出ない、笑顔も悲しみもない。死に顔に近かったのではないだろうか。
思わぬ方向に進む。
ドラゴンボールがものすごく次が気になる部分で終わってしまった。
どの場面だったか覚えてはいないが、来週も見たいと思った回だった。
故に、消えようと思った日はドラゴンボールに救われたのである。
転校することになった
毎日届く手紙、そして不登校。きっと親は悩んでいたであろう。
しかし親は一切顔や態度に出さず見守ってくれていた。本当に感謝しかない。
中学2年の時別府へ引っ越しをした。山の上のほうにある学校だった。
始業式の日、学校へ向かった。
転校した学校は、全生徒が標準学生服を着ている。
当たり前かもしれないが、今までいた学校はボンタンを履くことが普通だった。
8割以上の生徒が履いていたと思う。もちろん私も履いていた。それが普通だったから。
いわゆる改造学生服で始業式で目立っていたと思う。
すぐさま先輩に目をつけられることになる。
本当に面倒だった。
なんでそこまで人に興味があるのかわからない。
色々あって、転校先でも不登校になる。
夏休み、親の一言
中学2年の1学期はほとんどといっていいほど学校へ行くことがなかった。
ただただ人に干渉されることが嫌で仕方がなかった。
勝手に広まる作られた噂、勝手に構築される人間像、そして自分勝手な持論を押し付け正そうとする。
嫌で嫌で仕方がない。
母の一言は斬新なものだった
夏休みになり、暑い夏をどこにも行かず過ごしていた。
やっていることと言えば、エアーガンを改造しては裏の川に生えている葉っぱに向け発砲していたくらいだった。
見かねた母は、一言私にこういった
「何もしないならギターくらい弾きなさい」
ギターか。
しかし、そもそも音楽は全く興味がない。
ドリフを見てて最後の歌のコーナーはひょうきん族の懺悔コーナーに変えるという毎週のルーティンだ。
そもそも、小学生の頃、母親が「うちのとしかつは、授業で歌っていますでしょうか」と担任に聞くくらいだ。そんな私によくいったものだ、ギターを弾けと。
何も知らない、誰かに影響を受けて始めたわけではないし憧れもない。
そもそもギターってなんぞや、の状態で楽曲の中でギターの音がどれなのかすらわからないのである。
今と違ってYoutubeもない、教える人もいない、正解もわからない。
そんな環境で始めたギターであった。
唯一あったのは、ギターケースに入っていた「初心者向けフォークギターの弾き方」という教則本だった。
つづく
まとめ
今回は中学1年から2年になりギターを手にした時までをまとめました。
まとめていてツラツラを書いていたけども、自分にも興味がないのか気持ちが入っていない文章になってしまったな、と思ってしまった。
遺書の代わりというか、自伝みたいにここのコラムに残せたらいいなと思って書いています。
読みづらいとこがあるかもしれんけどご了承ください。
次回は初めてのフォークギターです。


